(あといつか) 参拝して見えられます。御祈念終わってから、いろいろお話させて頂いたんですけれども、綾部さんが高柴さんに、まー、言うておられるのですけども、坊ちゃまから、金光様の御信心をするなら、そうでも一つね、実意丁寧神信心と言われますから、実意丁寧にならなければいけませんよ。例えばあの、「日田でも繁盛しよるとこをみてみなさい。もう、どっこも繁盛しよるというとこは、主人でも実意、店員さんでも実意丁寧だと、それに信心させていただくものは、いわゆる神信心というのがついておって、実意丁寧ですから、金光様の信心いただいておって、あたくしどものこたるごっちゃいかんですよ」というても、しきりにそれを言うておられます。のを聞いてですねー、本ットに実意丁寧神信心というのは、もう、お道の信心の真髄、まーいうなら、これがお道に信心のしんになっておるものだと、おー、わたくしは、言うても過言ではないと思うんです。えー、本気でね。あたくしどもがね、ここだけでない、自分のうちに帰っても、本気での実意丁寧神信心ができなければ、金光様の信心をしておるなら、そうでなからねばおかげが受けられんと、一つの、今日綾部さんのことを(感じる) なかでですね、これはいよいよ、繁盛のおかげを頂きたいなら、「見てみなさい、日田でも何処ット、何処何処の、例えば、繁盛しよるとこはもう、実意丁寧でしょうが、と、こう、いうふうに、あらためて、金光様の信心を頂くようになって、実意丁寧実意丁寧と言うことを聞かせていただいてです、それを強く感じる。と言うことを言うておられます。
本当にお互い信心させていただくものが、どれほど実意丁寧神信心が、あー、生活の中に、取り入れられ、どれだけ生かされておるだろうかと、思いますと、本当にめいめい、わきの下から汗が出るように思う。成るほど、おかげがいただけない筈だと思うようなことが、ございます。
今月の焦点でありますところの、全ての事をありがとうございますと受けていく。もうこれが、既に実意丁寧です。ね、ですから、全ての事を、ありがとう受けさせていただく、自分にならせて頂こうと。いう願いを立てておる。からの、おー、今月の信心でございますから、そこんとこをいちだんとです、本当に、「おかげを頂きましてありがとうございます」とお礼のいえれるためにも、本気で実意丁寧を(かいで ?)はならないという風に思わけですよ。うーんそのことでわたくし今日、秋永先生、あーやー、久富先生と末永さんに少し今日は、(あたし、ふうわるいうたんです。 ?)ここでその今、綾部さんの、ちょいちょい私が、御用に入ったときには、表玄関に(「まーおしぼし?」) と言われますもん。それからあたくし、( ? )しよりましたら、綾部さんを立ててきておられるのでございました。あーえー、そして、色々話しよったら、(? )「もし、よございましたら、私があいてしますから」っち言われるから、わたくし次から次と、そしたら、しばらくしたら、もおーう、そこにあがって、そこに隅の方にちゃーんと、おんなさりますもん。「ほーんな、どうしたこっちゃろうか、わざわざここで待ち合わせてござる」という、なら、なら、どっか涼しい部屋にでも通して、冷たいもの一つでも上げて、エーまっとってもらったらどうじゃろか、と思ってから、あたくしが言ってもよかったけれども、あたくし、久富先生、出ちゃったけれども、わざわざ呼びにいってもらってから、(? )「そんなことがあるもんかい」っち、そんな、そげな、実意丁寧をかく(ことがいってくるもんの? )わざわざ、綾部さんとここで会いたい、と言うて、あちらが、あー、(? )見えておられるとじゃから、というたら、「それがわたくしは、もう末永さんに」えー、いうならば、その人を譲ってから私はもうすぐ、他の御用があったから、行った。と、こういうわけです。それけわたくしが、また末永さんを私が呼びました。(?ふんとにもふんとじゃないもう、ちゃんと? )あちらの、えー、涼しいところに、まー、待って、お茶でも頂きよってくださいっち言って、とおさじゃこて。あつかとこに、そげん、あーんた、ちゃんとまたせちから、そげなことがあるもんかい。ち、言うてから、悪いうたことです。それがちゃーんとそれまでに、電話までかかってきとった。こげなしてみえるから。「あーんた電話まで受け取って、あたくしにも言わんし、そんな、なおさらのこと、そうじゃない。わざわざ遠い小倉からまでも、みえて、えー、息子さんを、あのー、病気ですけど、病気ていうか、ちょっと、まー病気じゃないけど、病気みたいな?です」そのためにそのー、ここで修行でもさせて頂きたいと言って、願いを持ってまー来ておられるわけでございましたが、えー話をさせていただきましたら、もとは、巡査警部まで、えー、部長までなさって、そしてもうーそのー、何千万という、大きな仕事も、現在でも、もうたくさん色々事業をしておられて、まー今は、百姓同様に、なんか、たくさん牛を飼われて、牛の乳絞りをしておる。だからこの、抜け目のないほど、どこのお百姓さんじゃろうかというごと、してあるもんですから、(? )風袋ば見てから、あのーー、うーん、大事な人は大事にする。(? )「そういうことじゃいかん」ていうて、わたしは(? )申しましたんですけれど、本ットに、そういうところにも迂闊にして、実意をかいておることがございます。これは、ほんな事そうです。風袋のよいなら、さどうぞ、応接間。うーん、風袋がわるいなら、そこんとこでちゃ―んとまたしとる。そういうような、あたし、考え方ではいけない。しかも、ここのご信者さんを、で、だ、会われる約束をしておってから、見えておられるのだから、と言うてま―、言うたことですけれどもですね、あたくしどもの生活の中に、本当に実意丁寧がせいめいのように言われる信心を頂かせていただきながら、その実意丁寧神信心がでけていない。それではおかげが受けられん。ね、ほんとに信心なかっても、やはり、繁盛しておる店は、(? )見てみなさい。あすこでも、ここでも、あげん実意丁寧でしょうが、と。あーんた(??)ごとあって、あたしんとこは店であって、これは本気で実意丁寧、それに神信心をさせて頂かなければ、本当の繁盛にはなりませんよ。と、おー、綾部さんが繰り返し言うておれたのを聞かせて貰ってです、本とに、金光様の信心は、すぐにおかげを頂きましてありがとうございます。と言うようなことが、実感のないありがとうございますであったり、おかげ頂きましたであったり、または、言うことだけは実意丁寧神信心だけは、もう何千べんでも繰り返し言うておってもです、ね、本当の実意丁寧神信心が、行の上にあらわせていかなかったら、あたしはもう、本当におかげは受けられんと思う。お道の信心の、おー、せいめいと、言うて、いいと思われる、実意丁寧がなされないということは、いわゆる、金光さまの信心がもう、いうなら、命のない金光様の信心を頂いておるということにまで、私は思わせていただいて、本気でひとつ、実意丁寧神信心。(??)今日も一日私なりに、実意丁寧を尽くさせてもろうた、神信心させてもろうた、そこから、本当にありがとうございました。と、言えれる、あたしは答えが出てくるんだと言う風に思いますですね。どうぞ。